奈良の有名なお寺といわれたらやはり東大寺ですよね!
子供の頃に、柱に開けられた大仏様の鼻の穴サイズの穴をくぐった記憶がありますが、歴史を振り返ると大仏殿があるのが当たり前ではなかった時代もあったのです。
東大寺の建立
聖武天皇の悲運と盧舎那仏との出会い
聖武天皇の奈良時代は、天然痘の蔓延、天災、飢饉といった極めて困難な時代でした。
妻である光明皇后との間にもなかなか跡継ぎができず、ようやく生まれてきた子供も生後1年ほどで亡くなってしまいます。
待望した我が子との別れ、次々に発生する天変地異、身内での内乱など、様々な苦しみ渦中のなかで、聖武天皇は盧舎那仏と出会います。
聖武天皇は、仏教の信仰が国を守り、平和をもたらすという考えのもと、743年に「盧舎那仏造設の詔」を発令。紆余曲折ありつつも、最終的に奈良の地に大仏殿を建てる決断をしました。(当時は滋賀の紫香楽宮に建立する計画もあったが、災害で断念。)
天皇だけで作るのではなく、みんなで大仏を作りたい!!
聖武天皇は、自分の天皇の力を使えばでっかい大仏を作ることは簡単だが、そうではなく、大仏はみんなで作ってこそなのではと考えました。
お金に余裕のある貴族たちからは少しずつ財産を寄進してもらったりしましたが、なにも持っていない庶民たちは土でも草でもいいからみんなで持ち寄って作ろうとしました。
大仏を作るのはすごく大変なことだけど、とてもありがたいことであることを理解して作業せよとのことで、仏教で世を治めようとした聖武天皇の人となりが垣間見えます。
行基と民衆の力
大仏の建設には行基という僧侶の存在が不可欠でした。
行基は民衆から非常に人気があった僧侶といわれており、そのカリスマ性と指導力で多くの人々を動員することができました。行基は大仏を作る指令を受けてほんの数日で弟子を連れて勧進に出たという話もあるようです。
行基の活動は、当時の社会における民衆の力を象徴するものであり、行基なくして大仏の完成はなかったといえます。
大仏の建設には250万人が動員されていたといわれており、これは当時の人口のおよそ半分だったようです。
まさに国を挙げての一大プロジェクトですね。
聖武天皇の没後に大仏殿が完成
大仏の鋳造は困難を極めましたが、最終的に752年に開眼供養が行われました。そのときに使用したとされる筆は今も正倉院に保管されているそうです。
そして聖武天皇は大仏殿の完成を見届けることなく、754年に崩御しました。
聖武天皇の、為政者として民を救い切れていないという思い、仏教の力を使ってなんとかこの世を治めたいという思いが東大寺という遺構の根底にあるように感じます。
再建の歴史
平安時代の再建
乱世を生きた聖武天皇の思いのこもった大仏殿ですが、以降の時代で度重なる火災や戦乱によって何度も焼失し、そのたびに再建されてきました。
1180年の平重衡の南都焼討では、ほぼ全ての建物が焼失しましたが、鎌倉時代の俊乗房重源や鎌倉幕府の支援によって再建されました。
江戸時代の再建
1567年の松永久秀の乱でも大仏殿が焼失しました。その当時の大仏は見るも無惨な姿で、江戸の初期に再建されるまでの数百年間は野ざらしになっていたと言われています。
江戸時代の再建で活躍したのは、公慶(こうけい)と呼ばれる僧侶でした。
公慶は、ひどい有様の大仏をみて心を痛め、再建資金を集めるために全国を巡りました。一説によると、大仏の髪にあたる螺髪を片手に各地で寄付を募ったともいわれていますた。
その熱意で当初は消極的だった江戸幕府からも寄付をもらうことに成功し、その結果、多くの資金が集まり、1709年に現在の大仏殿が完成しました。
今我々が大仏殿を拝めるのは、公慶上人のクラウドファンディングのおかげといっても過言ではないのです。
まとめ
東大寺には、聖武天皇の決断とそれを支えた多くの民衆の努力が詰まっています。
大仏の建立から再建に至るまで、何度も困難に直面しながらも、その都度多くの人々の協力によって立ち上がってきました。
大仏殿を訪れる際には、その壮大なスケールだけでなく、背後にある多くの人々の努力と信仰の歴史に思いを馳せてみてください。
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